航空会社 KLMオランダ航空
- 国
- オランダ
- IATA | ICAO
- KL | KLM
- メンバー評価
- 搭乗レビュー 3.93 [189件]
- アライアンス
- スカイチーム
搭乗レビュー
2019年秋の帰国旅行7便目-100歳を迎えた長寿世界一のオランダ航空
- 口コミ投稿者
- MaplecroftInnkeeperさん
搭乗写真
総評
アムステルダムで1日寄り道した後、ニューヨークに帰るのに利用したのは、以前から乗ってみたいと思っていたKLMでした。KLMは世界で最も古い航空会社として知られていますが、つい先日の10月7日に、創設100周年を迎えました。
KLMの創設者はアルベルト・プレスマンという人で、1889年9月7日に商人の家に生まれましたが、26歳の時にオランダ空軍に従軍し、第一次大戦後の1919年8月に、初めてのアムステルダム航空エキスポを組織しました。これは大成功に終わり、このイベントのために建てた航空機格納庫は、アンソニー・フォッカーが自分の航空機製造会社で使うことになり、これが後のフォッカーの前衛となりました。そして、このイベントからインスピレーションを受けた数名の投資家やビジネスマンらが結集し、プレスマンを代表としてエアラインの設立を進めました。まだ設立されていないこのエアラインに対して、オランダ女王ウィヘルミナが「Royal(王立)」の称号を認め、1919年10月7日、正式名をKoninklijke Luchtvaart Maatschappij(英語ではRoyal Dutch Airlinesで、王立航空会社という意味)、略してKLMという名前のエアラインが設立されました。これが現在でも同じ名前で存在している、世界一古いエアラインです。プレスマンはこの時から、64歳でなくなった1953年12月31日まで、KLMの社長を務めました。オランダは現在も王国だし、この名称も当初のままなので、日本語でも「オランダ航空」ではなく、「オランダ王立航空」などとすべきなのでしょうが、きっとあまりしっくりこないせいか、日本語の名称は「KLMオランダ航空」となっていますね。
KLMの初飛行は翌年1920年5月で、ロンドン‐アムステルダム間でした。この時は、後のイギリスの航空機会社、デ・ハヴィランドの前衛であるAirco社のDHシリーズの飛行機をリースしました。しかしその翌年から、オランダのフォッカー社の飛行機によって、定期航空便の運航が始まりました。欧州外への航空便は、当時のオランダ領東インド諸島だったインドネシアのバタヴィア(現在のジャカルタ)への長距離便で、1924年10月に飛んだのが初めでした。この航路は1929年に定期路線となり、第二次大戦の勃発まで、世界最長距離の路線でした。初めての大西洋路線は、カリブ海のオランダ領キュラソー島への便で1934年に就航しました。
第二次大戦が勃発し、オランダはドイツの侵攻を受け、同時にKLMの運航も中断してしまいましたが、戦後すぐに復活して、1946年5月には、欧州系エアラインとして初めて、DC4型機によってニューヨーク便を就航しました。日本へは、1951年12月に、ロッキードL-749型機(コンステレーション)によって、南回りで、羽田まで64時間をかけた定期便が就航しました。その後、1958年11月1日、ヨーロッパから北極圏を通る初めての画期的なフライトとして、アムステルダムからアンカレッジ経由の東京便が就航しています。乗客約100人を乗せたDC7型機には、万が一不時着したときのことを考え、テントや食料、ナイフや猟銃などまで入った「ポーラーキット」、つまりサバイバル用品も搭載されていたとのことです。オランダはこのフライトに、当時の有名作家/テレビタレントだったゴドフリード・ボーマンス氏なども乗せたとのことで、到着した羽田空港には大勢の人が出迎え、帝国ホテルでレセプションが開かれ、天皇陛下にも面会し、芸者を呼んでの厚いもてなしを受けたという逸話も残されています。1971年には南回り路線にB747を投入して時間短縮が図られ、1987年4月には、アムステルダム‐東京の直行便が就航しました。日本とオランダって、歴史的にも古くから特別な関係がありましたけど、航空面でも、早くから東京に就航していたことにも、それが表れているような気がします。
KLMと切っても切り離せない存在だった人物に、初期の航空機パイオニアだったアンソニー・フォッカーという人がいます。フォッカーは1890年生まれのオランダ人で、子供の頃から紙の飛行機モデルを作っては飛ばしていた少年でした。16歳の時に初めて「空飛ぶマシン」というものの存在を知って、自分は将来パイロットになりたいと思ったと書いています。1910年に初めて自分で設計して組み立てたプロペラ機「De Spin」の飛行に成功して以来、多くの飛行機を設計して、「Flying Dutchman」(空飛ぶオランダ人男)として世界に知られるまでになりました。KLMが1991年12月に、欧州系エアラインとして初めてのマイレージ・プログラムを立ち上げた際、これを「Flying Dutchman」と名付けているのも、このフォッカーを意識してのことに違いありません。KLMは1921年からずっとこのフォッカーの航空機を飛ばしてきましたが、2008年にエンブラエルの飛行機を導入してから、徐々に置き換えが始まりました。そしてとうとう2017年10月28日、ロンドンからアムステルダムまでKLM最後のフォッカー機として飛んだフォッカー70が退役し、KLMのフォッカー時代は終わりを告げました。オランダ製の飛行機がオランダの地から姿を消してしまったのです。この最後の飛行機の垂直尾翼には、操縦服の帽子をかぶったアンソニー・フォッカーの肖像がデザインされていました。このフォッカー機最後の飛行路線が、KLMとしての初めての飛行路線だったロンドン-アムステルダムだったのも、決して偶然ではないと思います。
KLMはまた、初期の頃からダグラス社の航空機とも深い関係がありました。ダグラス社は、1921年にカリフォルニアで設立されたアメリカの航空機製造会社で、もともと軍用機が専門でしたが、1934年に民間旅客機として初めてDC2(「DC」は「Douglas Commercial」(民間商用機の意味)の略)を製造し、画期的なDC3からDC10まで、そしてマクドネル・ダグラス社になってから、DC10を置き換えるMD11まで、旅客機製造の第一線に立っていました。KLMは、そのDC2を初年度の1934年に導入して以来、DCシリーズからMD11まですべて導入してきました。ダグラス社は1967年にマクドネルと合併して、マクドネル・ダグラスとなり、最終的には1997年にボーイングに吸収されたわけですが、ダグラスの最後の飛行機は、僕が好きだったMD11でした。これのローンチカスタマーはフィンエアーで、1990年12月に世界の空に登場し、KLMも1993年にこれを導入しました。米系として唯一MD11を飛ばしていたのはデルタですが、90年代に何度かこれに乗って日本とアメリカを行き来した思い出があります。CAさんたちの間でも、とても評判のいい飛行機だったんです。残念ながらこの飛行機は性能や効率面などでエアラインにあまり受け入れられず、2009年頃までには他社はすべてこれを貨物機に転換したりUPSに売却したりしてしまいましたが、KLMだけはそれでも飛ばし続けていました。ですが、ついに、2014年10月25日にモントリオール空港を飛び立ったKL672便が、旅客機としての最後のMD11のフライトとなりました。モントリオールは、僕が住んでいるバーモント州から、バス代25ドルほどで行ける場所なので、最後のフライトに乗ってみたいという気持ちは山々だったのですが、どうしてもチケットも手に入らないし、時間の都合もつかないし・・・。KLMはダグラス社との80年の歴史を大事にして、このMD11のさよならキャンペーンを展開しました。そして、定期便運航が終了した後、11月11日にもう一度だけ、ファンたちのために本当に最後にオランダ国内をMD11で旋回する特別さよならフライトを組織しました。
航空ファンもそうですが、エアラインで働く人たちにとっては、きっと飛行機の一つ一つに思い出や、思い入れがあるのでしょうから、飛行機が退役するというのは、涙の出るような出来事なんでしょうね。それが、これだけ古い歴史のあるエアラインの創設初期から一緒に歩んできたものが終わりを告げるということになると、余計に深い思いでいっぱいだったに違いありません。一方、明るい将来の兆しとして、KLMは100歳を迎えるちょうど100日前の6月30日に、欧州系エアラインとして初めてB787-10のデリバリを受けて、まずは7月からタンザニアのキリマンジャロとダルエスサラーム線、ドバイ線、そして9月からトロント線に投入しました。100歳を迎えた長寿世界一のエアラインですが、世代の交代を続けながら、いつまでも飛び続けて欲しいと思いました。
その飛行機ですが、もともとB777-200だったはずなのに、当日急遽機材変更があって、乗ったのはB747-400でした。その関係で、搭乗口では大量の座席番号変更があるということで、モニターで名前を確認するように、名前がのっている人は、一番左の列に並ぶようにと、搭乗の長い列を作っている人たちにしきりに呼び掛けていました。自分は搭乗口に着いたときに、モニターに自分の名前がのっているのを確認して、カウンターの前の長い列に並んだのですが、確認せずにそのまま搭乗の列に並び、搭乗券をスキャンしてはねられる人が大勢いました。その人たちは、その場で新しい搭乗券を出してもらって受け取り、そのままさっさと乗り込んで行きました。その様子を横目で見ながら、自分は正直に正しくこっちの列に並んでいて、手続きを済ませてからまた搭乗の列の一番後ろに並ぼうとしているのに、正直者は損をするんだなと思いましたが、まあ、人のことはどうでもいい、自分は正直に物事を正しくすればそれでいいと言い聞かせました。
それにしても、僕は機内に預ける荷物もないので、座席を事前に選ぶためだけに、わざわざ高いメイン・キャビンのチケットを購入したのに、その選んだ座席が当日になって変更され、勝手な番号がアサインされるというのは、やや納得のいかないことです。長い列に並んでやっとカウンターに進み出て搭乗券を見せたら、座席番号の変更はなく、ただ前日に自分でウェブチェックインをしていたから、パスポートの認証をする必要があったというだけのことでした。それでも、事前に選んでおいた43Aという座席はB777-200では一番後方の座席で、機体の一番後ろの方に落ち着いて座りたかったからそこを選らんだのに、B747では前にも後ろにも人が大勢いる真ん中あたりです。窮屈な思いで、やっぱりやや納得がいかないとは思いましたが、それでももうあと何度乗れるかわからないB747に乗れたので、それはそれでいいとしなきゃいけないですね。
ヨーロッパからアメリカに帰るときは、たいがいホテルをチェックアウトしてすぐ空港に向かうのですが、この日は夕方の出発だったので、午後までアムステルダムの町を散歩したりして、旅の最後を名残惜しんでから空港に向かいました。離陸するともう空は暗く、まもなく夕食となりました。29歳のベテラン機は、座り心地こそよくはありませんが、旅の思い出とKLMの100年間を思うひと時にはふさわしいかななどと考えました。
KLMの創設者はアルベルト・プレスマンという人で、1889年9月7日に商人の家に生まれましたが、26歳の時にオランダ空軍に従軍し、第一次大戦後の1919年8月に、初めてのアムステルダム航空エキスポを組織しました。これは大成功に終わり、このイベントのために建てた航空機格納庫は、アンソニー・フォッカーが自分の航空機製造会社で使うことになり、これが後のフォッカーの前衛となりました。そして、このイベントからインスピレーションを受けた数名の投資家やビジネスマンらが結集し、プレスマンを代表としてエアラインの設立を進めました。まだ設立されていないこのエアラインに対して、オランダ女王ウィヘルミナが「Royal(王立)」の称号を認め、1919年10月7日、正式名をKoninklijke Luchtvaart Maatschappij(英語ではRoyal Dutch Airlinesで、王立航空会社という意味)、略してKLMという名前のエアラインが設立されました。これが現在でも同じ名前で存在している、世界一古いエアラインです。プレスマンはこの時から、64歳でなくなった1953年12月31日まで、KLMの社長を務めました。オランダは現在も王国だし、この名称も当初のままなので、日本語でも「オランダ航空」ではなく、「オランダ王立航空」などとすべきなのでしょうが、きっとあまりしっくりこないせいか、日本語の名称は「KLMオランダ航空」となっていますね。
KLMの初飛行は翌年1920年5月で、ロンドン‐アムステルダム間でした。この時は、後のイギリスの航空機会社、デ・ハヴィランドの前衛であるAirco社のDHシリーズの飛行機をリースしました。しかしその翌年から、オランダのフォッカー社の飛行機によって、定期航空便の運航が始まりました。欧州外への航空便は、当時のオランダ領東インド諸島だったインドネシアのバタヴィア(現在のジャカルタ)への長距離便で、1924年10月に飛んだのが初めでした。この航路は1929年に定期路線となり、第二次大戦の勃発まで、世界最長距離の路線でした。初めての大西洋路線は、カリブ海のオランダ領キュラソー島への便で1934年に就航しました。
第二次大戦が勃発し、オランダはドイツの侵攻を受け、同時にKLMの運航も中断してしまいましたが、戦後すぐに復活して、1946年5月には、欧州系エアラインとして初めて、DC4型機によってニューヨーク便を就航しました。日本へは、1951年12月に、ロッキードL-749型機(コンステレーション)によって、南回りで、羽田まで64時間をかけた定期便が就航しました。その後、1958年11月1日、ヨーロッパから北極圏を通る初めての画期的なフライトとして、アムステルダムからアンカレッジ経由の東京便が就航しています。乗客約100人を乗せたDC7型機には、万が一不時着したときのことを考え、テントや食料、ナイフや猟銃などまで入った「ポーラーキット」、つまりサバイバル用品も搭載されていたとのことです。オランダはこのフライトに、当時の有名作家/テレビタレントだったゴドフリード・ボーマンス氏なども乗せたとのことで、到着した羽田空港には大勢の人が出迎え、帝国ホテルでレセプションが開かれ、天皇陛下にも面会し、芸者を呼んでの厚いもてなしを受けたという逸話も残されています。1971年には南回り路線にB747を投入して時間短縮が図られ、1987年4月には、アムステルダム‐東京の直行便が就航しました。日本とオランダって、歴史的にも古くから特別な関係がありましたけど、航空面でも、早くから東京に就航していたことにも、それが表れているような気がします。
KLMと切っても切り離せない存在だった人物に、初期の航空機パイオニアだったアンソニー・フォッカーという人がいます。フォッカーは1890年生まれのオランダ人で、子供の頃から紙の飛行機モデルを作っては飛ばしていた少年でした。16歳の時に初めて「空飛ぶマシン」というものの存在を知って、自分は将来パイロットになりたいと思ったと書いています。1910年に初めて自分で設計して組み立てたプロペラ機「De Spin」の飛行に成功して以来、多くの飛行機を設計して、「Flying Dutchman」(空飛ぶオランダ人男)として世界に知られるまでになりました。KLMが1991年12月に、欧州系エアラインとして初めてのマイレージ・プログラムを立ち上げた際、これを「Flying Dutchman」と名付けているのも、このフォッカーを意識してのことに違いありません。KLMは1921年からずっとこのフォッカーの航空機を飛ばしてきましたが、2008年にエンブラエルの飛行機を導入してから、徐々に置き換えが始まりました。そしてとうとう2017年10月28日、ロンドンからアムステルダムまでKLM最後のフォッカー機として飛んだフォッカー70が退役し、KLMのフォッカー時代は終わりを告げました。オランダ製の飛行機がオランダの地から姿を消してしまったのです。この最後の飛行機の垂直尾翼には、操縦服の帽子をかぶったアンソニー・フォッカーの肖像がデザインされていました。このフォッカー機最後の飛行路線が、KLMとしての初めての飛行路線だったロンドン-アムステルダムだったのも、決して偶然ではないと思います。
KLMはまた、初期の頃からダグラス社の航空機とも深い関係がありました。ダグラス社は、1921年にカリフォルニアで設立されたアメリカの航空機製造会社で、もともと軍用機が専門でしたが、1934年に民間旅客機として初めてDC2(「DC」は「Douglas Commercial」(民間商用機の意味)の略)を製造し、画期的なDC3からDC10まで、そしてマクドネル・ダグラス社になってから、DC10を置き換えるMD11まで、旅客機製造の第一線に立っていました。KLMは、そのDC2を初年度の1934年に導入して以来、DCシリーズからMD11まですべて導入してきました。ダグラス社は1967年にマクドネルと合併して、マクドネル・ダグラスとなり、最終的には1997年にボーイングに吸収されたわけですが、ダグラスの最後の飛行機は、僕が好きだったMD11でした。これのローンチカスタマーはフィンエアーで、1990年12月に世界の空に登場し、KLMも1993年にこれを導入しました。米系として唯一MD11を飛ばしていたのはデルタですが、90年代に何度かこれに乗って日本とアメリカを行き来した思い出があります。CAさんたちの間でも、とても評判のいい飛行機だったんです。残念ながらこの飛行機は性能や効率面などでエアラインにあまり受け入れられず、2009年頃までには他社はすべてこれを貨物機に転換したりUPSに売却したりしてしまいましたが、KLMだけはそれでも飛ばし続けていました。ですが、ついに、2014年10月25日にモントリオール空港を飛び立ったKL672便が、旅客機としての最後のMD11のフライトとなりました。モントリオールは、僕が住んでいるバーモント州から、バス代25ドルほどで行ける場所なので、最後のフライトに乗ってみたいという気持ちは山々だったのですが、どうしてもチケットも手に入らないし、時間の都合もつかないし・・・。KLMはダグラス社との80年の歴史を大事にして、このMD11のさよならキャンペーンを展開しました。そして、定期便運航が終了した後、11月11日にもう一度だけ、ファンたちのために本当に最後にオランダ国内をMD11で旋回する特別さよならフライトを組織しました。
航空ファンもそうですが、エアラインで働く人たちにとっては、きっと飛行機の一つ一つに思い出や、思い入れがあるのでしょうから、飛行機が退役するというのは、涙の出るような出来事なんでしょうね。それが、これだけ古い歴史のあるエアラインの創設初期から一緒に歩んできたものが終わりを告げるということになると、余計に深い思いでいっぱいだったに違いありません。一方、明るい将来の兆しとして、KLMは100歳を迎えるちょうど100日前の6月30日に、欧州系エアラインとして初めてB787-10のデリバリを受けて、まずは7月からタンザニアのキリマンジャロとダルエスサラーム線、ドバイ線、そして9月からトロント線に投入しました。100歳を迎えた長寿世界一のエアラインですが、世代の交代を続けながら、いつまでも飛び続けて欲しいと思いました。
その飛行機ですが、もともとB777-200だったはずなのに、当日急遽機材変更があって、乗ったのはB747-400でした。その関係で、搭乗口では大量の座席番号変更があるということで、モニターで名前を確認するように、名前がのっている人は、一番左の列に並ぶようにと、搭乗の長い列を作っている人たちにしきりに呼び掛けていました。自分は搭乗口に着いたときに、モニターに自分の名前がのっているのを確認して、カウンターの前の長い列に並んだのですが、確認せずにそのまま搭乗の列に並び、搭乗券をスキャンしてはねられる人が大勢いました。その人たちは、その場で新しい搭乗券を出してもらって受け取り、そのままさっさと乗り込んで行きました。その様子を横目で見ながら、自分は正直に正しくこっちの列に並んでいて、手続きを済ませてからまた搭乗の列の一番後ろに並ぼうとしているのに、正直者は損をするんだなと思いましたが、まあ、人のことはどうでもいい、自分は正直に物事を正しくすればそれでいいと言い聞かせました。
それにしても、僕は機内に預ける荷物もないので、座席を事前に選ぶためだけに、わざわざ高いメイン・キャビンのチケットを購入したのに、その選んだ座席が当日になって変更され、勝手な番号がアサインされるというのは、やや納得のいかないことです。長い列に並んでやっとカウンターに進み出て搭乗券を見せたら、座席番号の変更はなく、ただ前日に自分でウェブチェックインをしていたから、パスポートの認証をする必要があったというだけのことでした。それでも、事前に選んでおいた43Aという座席はB777-200では一番後方の座席で、機体の一番後ろの方に落ち着いて座りたかったからそこを選らんだのに、B747では前にも後ろにも人が大勢いる真ん中あたりです。窮屈な思いで、やっぱりやや納得がいかないとは思いましたが、それでももうあと何度乗れるかわからないB747に乗れたので、それはそれでいいとしなきゃいけないですね。
ヨーロッパからアメリカに帰るときは、たいがいホテルをチェックアウトしてすぐ空港に向かうのですが、この日は夕方の出発だったので、午後までアムステルダムの町を散歩したりして、旅の最後を名残惜しんでから空港に向かいました。離陸するともう空は暗く、まもなく夕食となりました。29歳のベテラン機は、座り心地こそよくはありませんが、旅の思い出とKLMの100年間を思うひと時にはふさわしいかななどと考えました。
フライトログ
搭乗の詳細データです。
- 座席番号
- 43A
- 搭乗クラス
- エコノミー
- 区間マイル
- 3,630
- 出発予定時刻
- 17:10
- 到着予定時刻
- 19:30
- 予定飛行時間
- 8:20
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