搭乗レビュー
帰宅路5便目-戦争で引き裂かれたルフトハンザの辛い歴史
- 口コミ投稿者
- MaplecroftInnkeeperさん
搭乗写真
総評
マドリッドもそうでしたけど、フランクフルトも、長距離国際線のターミナルで再びしつこくセキュリティーを通過したあと、ゲートに行くのに強制的に免税店の中を歩かせられます。自分は香水の匂いが嫌いなので、あそこを歩くのは苦痛なんですけど、仕方がありません。国際線に乗るのは金持ちばかりとは限らず、自分みたいな貧乏人も中にはいるのに…。それと、今度は長距離だからと思い、水を買って持ち込もうとしたら、500mlの小さいペットボトルが€3.5もしました。(¥600近く?!)闇市場じゃないんだから、空港という公共の場所でここまであからさまにボッタグルのもいい加減にしてほしいですね。でもこれが最後のルフトハンザだし、搭乗する前からあんまり不愉快な気分になるのはやめるように努めました。
さて、搭乗時間までメールでもしようと思い、隣のゲートの待合場でうまいこと電源を見つけて座り、タブレットPCを膝の上に広げてパチパチと始めました。搭乗まであと30分くらいかなと思ったところで、トイレに行っておこうと、荷物をまとめて、向こうの方のトイレで用を足してから出てくると、あれ?頭上の時計が目に入り、5時を指してる…。自分の時計では4時のはずなのに…?あっ!ダブリンと1時間時差があるのに、時計直してなかった!飛行機の出発は5時10分!!ギョエ~ッ!ド、どうしよう!慌ててダッシュでゲートまで走っていくと、ガラーンとしていて、もしやクローズしてしまったのかと一瞬目の前が真っ暗に。向こうは「Mr. XXですね。」と待っていたように名前を言われ、早く行ってくださいと言われて、危機一髪のところで飛行機に乗れました(汗)。時差ボケって怖い…。
ところで、ルフトハンザはユナイテッドと同じ1926年に、郵便物を運ぶ国営企業としてスタートしましたが、戦争で引き裂かれた辛い歴史がここにもありました。ベルリンを根拠地にして運航されていたのが、戦争で国が分断されると、ルフトハンザも分断、さらに敗戦でドイツは1945年に完全に領空権を失い、ルフトハンザも運航できなくなり、事実上消滅してしまいます。1953年に西ドイツ政府はLuftagという国営航空会社を新規に設立し、翌年、事実上消滅していたルフトハンザの名前とロゴを3万マルクで買い取って再スタート、1955年にやっと運航権が認められて営業を開始したのでした。10年間のブランクを経ての運航再開でしたが、以前のスタッフが多く戻ってきたそうです。ただ、もともとの根拠地だったベルリンは今や分割されて外国の統治下に置かれてしまったため、発着さえできず、ルフトハンザはフランクフルトを中心にして運航路線網を広げていきました。情勢が回復したらベルリンに根拠地を戻すつもりだったのが、ついに実現を見ることはなく、再びベルリンへ乗り入れられるようになったのは、ずっと先の1990年、東西統一後のことです。
東ドイツも戦後1955年に「ルフトハンザ」を再び設立したものの、すでに西ドイツがこの名前を取得していたため法的にもめて、1958年に別会社として創設したInterflugがこれにとって代わり、東のルフトハンザは1964年にふたたび消滅することになります。東西ドイツが統一されたあと、この東ドイツの国営航空会社は投資家が集まらず、1991年についに消滅しました。
今回乗ったニューヨーク路線は、ルフトハンザの大西洋航路第1号として1960年3月に就航しましたが、国際線の路線網はどんどん拡大して、日本にも翌年1961年に就航しています。ただ同じ敗戦国の日本も、羽田空港が米軍管理下に置かれていたのが1952年に返還され、英国海外航空(現在のブリティッシュエアウェイズ)やスカンジナビア航空などがいち早く就航し、1953年には日本航空が国際便を飛ばし始めたこと考えると、ルフトは戦後やや出遅れたということでしょうか。やっぱり10年は大きいですね。戦争で航空機技術が進んだという面も確かにあるのでしょうけど、やっぱり悲しい歴史です。そう思うと、なんだか感慨深い気持ちで54年前に就航したニューヨーク便に搭乗しました。
しかし一方で、時の流れを感じさせるような出来事もありますよね。私がドイツの銀行に勤めていた頃、ドイツとオーストリアは仲が悪いので、オーストリアに支店を持つドイツの銀行もなければ、ドイツに支店を持つオーストリアの銀行もないなどと教えられたものでしたが、国のフラッグキャリアとして運航していたオーストリア航空が、5年ほど前にルフトハンザグループに吸収されて、経営危機を乗り切ることになったのは、まさかと思うような出来事ですけど、まだ記憶に新しいですね。戦後70年になろうとしている今、戦争の深い傷が少しずつ癒えつつあるのかなという気もします。
だけど、そんなことを考えたり感じたりする物好きは自分だけで、飛行機に乗っている乗客や乗務員にそんなこと言ったら、アンタ、アホかって言われそうですね。CAさんたちは、そんなセンチなこと考えてる暇ないのよって言わんばかりに、満席のキャビンでテキパキと忙しそうに働いていらっしゃいました。ルフトハンザのサービスでいいと思った点を挙げるとすると、飲み物サービスの気前のよさでしょうか。離陸後、食事の前に飲み物のサービスがあり、食事と一緒にさらに飲み物をもらえます。一つ注文すると、必ず、「他になにか?」とか「お水も一緒にいかが?」などと聞かれ、2種類の飲み物を当然のようにくれます。食事が終わる頃に、水(スパークリングと普通の2種類)のお代わりが通路を通り、別の人がワイン(白と赤のボトル)を持ってお代わりを注いでいました。(3杯目になっちゃうのでさすがに遠慮しました)その後コーヒーと紅茶、さらにトレーを下げながら、食後のコニャックとベイリーズを配っていました。(この時は遠慮せずにベイリーズをいただきました)それだけ飲んだら、さすがの自分もいい気分になりました(笑)。
途中、ギャレーにスナックを用意してあるとのアナウンスでしたが、どんなものがあるのか覗いてみたら、水とオレンジジュースがカップに注がれて並んでいたのと、ワインなどの酒類の瓶が並んでいるだけで、特に食べ物はないみたいでした。CAさんたちが座ってて、食事をしたりお喋りをしたりしていたので、カメラを出しにくい雰囲気でした。
JFK到着後、別チケット便への乗り換え時間が2時間半とややタイトだったので、イミグレでもたもたすることを考えると、絶対遅れてくれるなよと祈るような気持ちでしたが、さすがオンタイムパフォーマンスのいいルフト様、しっかり定刻に到着してくれて感謝です。イミグレも「Visitor」の列は相変わらず悪夢のようでかわいそうでしたけど、「Resident」の列は比較的すんなり通過できました。
さて、搭乗時間までメールでもしようと思い、隣のゲートの待合場でうまいこと電源を見つけて座り、タブレットPCを膝の上に広げてパチパチと始めました。搭乗まであと30分くらいかなと思ったところで、トイレに行っておこうと、荷物をまとめて、向こうの方のトイレで用を足してから出てくると、あれ?頭上の時計が目に入り、5時を指してる…。自分の時計では4時のはずなのに…?あっ!ダブリンと1時間時差があるのに、時計直してなかった!飛行機の出発は5時10分!!ギョエ~ッ!ド、どうしよう!慌ててダッシュでゲートまで走っていくと、ガラーンとしていて、もしやクローズしてしまったのかと一瞬目の前が真っ暗に。向こうは「Mr. XXですね。」と待っていたように名前を言われ、早く行ってくださいと言われて、危機一髪のところで飛行機に乗れました(汗)。時差ボケって怖い…。
ところで、ルフトハンザはユナイテッドと同じ1926年に、郵便物を運ぶ国営企業としてスタートしましたが、戦争で引き裂かれた辛い歴史がここにもありました。ベルリンを根拠地にして運航されていたのが、戦争で国が分断されると、ルフトハンザも分断、さらに敗戦でドイツは1945年に完全に領空権を失い、ルフトハンザも運航できなくなり、事実上消滅してしまいます。1953年に西ドイツ政府はLuftagという国営航空会社を新規に設立し、翌年、事実上消滅していたルフトハンザの名前とロゴを3万マルクで買い取って再スタート、1955年にやっと運航権が認められて営業を開始したのでした。10年間のブランクを経ての運航再開でしたが、以前のスタッフが多く戻ってきたそうです。ただ、もともとの根拠地だったベルリンは今や分割されて外国の統治下に置かれてしまったため、発着さえできず、ルフトハンザはフランクフルトを中心にして運航路線網を広げていきました。情勢が回復したらベルリンに根拠地を戻すつもりだったのが、ついに実現を見ることはなく、再びベルリンへ乗り入れられるようになったのは、ずっと先の1990年、東西統一後のことです。
東ドイツも戦後1955年に「ルフトハンザ」を再び設立したものの、すでに西ドイツがこの名前を取得していたため法的にもめて、1958年に別会社として創設したInterflugがこれにとって代わり、東のルフトハンザは1964年にふたたび消滅することになります。東西ドイツが統一されたあと、この東ドイツの国営航空会社は投資家が集まらず、1991年についに消滅しました。
今回乗ったニューヨーク路線は、ルフトハンザの大西洋航路第1号として1960年3月に就航しましたが、国際線の路線網はどんどん拡大して、日本にも翌年1961年に就航しています。ただ同じ敗戦国の日本も、羽田空港が米軍管理下に置かれていたのが1952年に返還され、英国海外航空(現在のブリティッシュエアウェイズ)やスカンジナビア航空などがいち早く就航し、1953年には日本航空が国際便を飛ばし始めたこと考えると、ルフトは戦後やや出遅れたということでしょうか。やっぱり10年は大きいですね。戦争で航空機技術が進んだという面も確かにあるのでしょうけど、やっぱり悲しい歴史です。そう思うと、なんだか感慨深い気持ちで54年前に就航したニューヨーク便に搭乗しました。
しかし一方で、時の流れを感じさせるような出来事もありますよね。私がドイツの銀行に勤めていた頃、ドイツとオーストリアは仲が悪いので、オーストリアに支店を持つドイツの銀行もなければ、ドイツに支店を持つオーストリアの銀行もないなどと教えられたものでしたが、国のフラッグキャリアとして運航していたオーストリア航空が、5年ほど前にルフトハンザグループに吸収されて、経営危機を乗り切ることになったのは、まさかと思うような出来事ですけど、まだ記憶に新しいですね。戦後70年になろうとしている今、戦争の深い傷が少しずつ癒えつつあるのかなという気もします。
だけど、そんなことを考えたり感じたりする物好きは自分だけで、飛行機に乗っている乗客や乗務員にそんなこと言ったら、アンタ、アホかって言われそうですね。CAさんたちは、そんなセンチなこと考えてる暇ないのよって言わんばかりに、満席のキャビンでテキパキと忙しそうに働いていらっしゃいました。ルフトハンザのサービスでいいと思った点を挙げるとすると、飲み物サービスの気前のよさでしょうか。離陸後、食事の前に飲み物のサービスがあり、食事と一緒にさらに飲み物をもらえます。一つ注文すると、必ず、「他になにか?」とか「お水も一緒にいかが?」などと聞かれ、2種類の飲み物を当然のようにくれます。食事が終わる頃に、水(スパークリングと普通の2種類)のお代わりが通路を通り、別の人がワイン(白と赤のボトル)を持ってお代わりを注いでいました。(3杯目になっちゃうのでさすがに遠慮しました)その後コーヒーと紅茶、さらにトレーを下げながら、食後のコニャックとベイリーズを配っていました。(この時は遠慮せずにベイリーズをいただきました)それだけ飲んだら、さすがの自分もいい気分になりました(笑)。
途中、ギャレーにスナックを用意してあるとのアナウンスでしたが、どんなものがあるのか覗いてみたら、水とオレンジジュースがカップに注がれて並んでいたのと、ワインなどの酒類の瓶が並んでいるだけで、特に食べ物はないみたいでした。CAさんたちが座ってて、食事をしたりお喋りをしたりしていたので、カメラを出しにくい雰囲気でした。
JFK到着後、別チケット便への乗り換え時間が2時間半とややタイトだったので、イミグレでもたもたすることを考えると、絶対遅れてくれるなよと祈るような気持ちでしたが、さすがオンタイムパフォーマンスのいいルフト様、しっかり定刻に到着してくれて感謝です。イミグレも「Visitor」の列は相変わらず悪夢のようでかわいそうでしたけど、「Resident」の列は比較的すんなり通過できました。
フライトログ
搭乗の詳細データです。
- 座席番号
- 30C
- 搭乗クラス
- エコノミー
- 区間マイル
- 3,844
- 出発予定時刻
- 17:10
- 到着予定時刻
- 19:50
- 予定飛行時間
- 8:40
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