1964年東京五輪に運航開始、オリエンタルエアブリッジのこれまで振り返る

1964年東京五輪に運航開始、オリエンタルエアブリッジのこれまで振り返る

ニュース画像 1枚目:オリエンタルエアブリッジのQ200 (pringlesさん撮影)
オリエンタルエアブリッジのQ200 (pringlesさん撮影)

オリエンタルエアブリッジ(ORC)は2021(令和3)年6月12日(土)、創立60周年を迎えました。長崎航空として設立された1961年当時から、長崎空港に拠点を構え、地域密着型のリージョナル航空会社として運航されてきました。定期便の運航開始は、ちょうど前回の東京オリンピックが開催された1964(昭和39)年4月。地域に特化した多くの航空会社が消えていった中、現在まで多くの困難を乗り越えてきました。今回はその60年間を振り返り、今後にも目を向けてみます。

創業期

1961(昭和36)年6月12日(月)、長崎航空として設立。定期便の運航に向け準備を進め、1963(昭和38)年8月に定期航空運送事業の免許交付、1964(昭和39)年4月に定期旅客便の運航を開始しました。

ニュース画像 1枚目:長崎航空に移籍する前のデハビランド104-5A「JA5038」 (Y.Todaさん撮影)
長崎航空に移籍する前のデハビランド104-5A「JA5038」 (Y.Todaさん撮影)

その頃の国内の航空会社は日本航空(JAL)、全日本空輸(ANA)があり、北日本航空・富士航空・日東航空を合併して日本国内航空ができたころ。日本国内航空は、1971年に東亜航空と合併して東亜国内航空(後の日本エアシステム、JAS)となります。今振り返ると、長崎航空の設立時期は、戦後日本の航空会社の黎明期にあたるでしょう。

設立された1961年ごろ、長崎航空が使用した機材は、グラマンG-21Aグースの機体記号(レジ)「JA5063」、リースで導入したエアロコマンダー520の「JA5001」、デハビランド104-5A「JA5038」などでした。これら設立初期に導入された機体は、概ね1968年から1969年にかけて長崎航空から退役、または売却されていきます。

保有する機体が退役、売却された理由の1つには、当時の国の航空政策が絡んでいます。

ニュース画像 2枚目:長崎航空に移籍する前のDH104 ダブ「JA5038」 (Y.Todaさん撮影)
長崎航空に移籍する前のDH104 ダブ「JA5038」 (Y.Todaさん撮影)

当時の国の政策は、運輸大臣が依頼した航空審議会で検討。1965(昭和40)年12月に国内の定期航空運送事業(航空会社)は、国際線1社、国内線2社という方向性を示しました。

地方を結ぶリージョナル路線(当時は「ローカル路線」と読んでいた)は、過当競争を避けるため原則として競合させない方針が決まったのです。この方針に基づき、長崎航空が定期航空部門で運航していた長崎/五島福江線、福岡/壱岐線の2路線は、1967(昭和42)年12月に全日空(ANA)へ委譲されました。

ニュース画像 3枚目:スカイマークが運航を開始するまで、長崎航空が35年間、最も新しい航空会社だった (Fuseyaさん撮影)
スカイマークが運航を開始するまで、長崎航空が35年間、最も新しい航空会社だった (Fuseyaさん撮影)

新たな航空会社は認可されないため、実質的に定期便を運航する会社設立はしばらくできない状態が続きました。JAL、ANA、JAS系列の子会社設立を除き、1998(昭和63)年7月に定期航空運送事業の認可を得て、羽田/福岡線に就航するスカイマークの登場までの37年間、長崎航空は最も新しく設立された「新規航空会社」でした。

こうした歴史を振り返ると、昭和時代の航空業界を育成した、逆に規制産業となる素地を作り出したいわゆる「45・47体制」は、長崎航空の歴史を大きく左右しました。長崎航空の創業期の定期便運航は、1964年4月から1967年12月まで3年半ほどで幕を閉じました。

定期便 復活

定期便をANAに委譲して細々と続けられたのが貸切・遊覧飛行などの航空事業でした。その転機は1980年5月で、再び旅客便を長崎/壱岐線で再開しました。世界の航空業界に自由と競争の大きな変革が巻き起こり、それが日本にも波及。航空憲法とまで言われた絶対的な「45・47体制」を解釈変更で乗り切ろうという動きが大手航空会社で生まれていました。その機運の中、長崎航空は再び長崎県内の公共交通機関として、定期便運航を再開しました。

ニュース画像 4枚目:定期便再開前、航空事業のみ展開していた時のセスナ172 (チャーリーマイクさん撮影)
定期便再開前、航空事業のみ展開していた時のセスナ172 (チャーリーマイクさん撮影)

定期便の復活後、長崎航空に珍しい機体が導入されています。オーストラリア国営企業が170機を製造したGAF製ノーマッドです。「JA8827」「JA8834」として2機が長崎航空で登録され、その後は新中央航空に移籍。1995年には新中央航空からも退役しています。

ニュース画像 5枚目:GAF ノーマッド。日本では2機登録 (TKOさん撮影)
GAF ノーマッド。日本では2機登録 (TKOさん撮影)

長崎航空で最も親しまれた機体は客席8席のブリテン・ノーマン製BN-2型、愛称「アイランダー」でしょう。日本国内には6,800を超の島があり、長崎県にはその14%に相当する971島があります。国内では最も多くの島を抱える県です。こうした離島アクセスの利便性確保を背景に、1981年に上五島空港、1985年に小値賀空港へ就航。800メートルの短い滑走路でも運航できる「アイランダー」が重宝され、離島へ便利にアクセスできる手段として活躍しました。

ニュース画像 6枚目:長崎航空の旧塗装、アイランダー。赤系をベースに尾翼に「NAW」 (TKOさん撮影)
長崎航空の旧塗装、アイランダー。赤系をベースに尾翼に「NAW」 (TKOさん撮影)
ニュース画像 7枚目:長崎航空の新塗装、アイランダー。赤系から青と黄に変更 「NAW」の略称はしっかりと尾翼に刻まれた (チャーリーマイクさん撮影)
長崎航空の新塗装、アイランダー。赤系から青と黄に変更 「NAW」の略称はしっかりと尾翼に刻まれた (チャーリーマイクさん撮影)

この頃、定期便の「アイランダー」、航空事業のセスナとも「NAW」と機体の尾翼に記載されています。このロゴは、長崎航空の英語名「Nagasaki Airways」の略称です。かつての時刻表には、「NAGASAKI AIR WAYS」と敢えて「AIR」「WAYS」をスペースで区切り、ロゴのAとWの意味がはっきり分かる記載もありました。

オリエンタルエアブリッジ

2001年3月、現在も使用するDHC-8-200(Q200)、レジ「JA801B」「JA802B」の導入を前に社名をオリエンタルエアブリッジに変更。同年7月から39席を搭載するQ200で長崎/壱岐線、壱岐/福岡線に就航しました。さらに、8月には長崎/鹿児島線を開設し、離島を結ぶ路線以外も運航をはじめます。

ニュース画像 8枚目:路線の統廃合はあるものの、Q200は離島の生活路線として運航を続けている (kumagorouさん撮影)
路線の統廃合はあるものの、Q200は離島の生活路線として運航を続けている (kumagorouさん撮影)

長崎航空時代から運航していたアイランダーは、新たな略称「ORC」に変更されました。この最後の機体の退役は2006年3月末でした。退役と同時に、小値賀と上五島への定期便も運休となりました。最後まで定期便を支えたアイランダーは、レジ「JA5316」「JA5318」の2機。いずれも海外に売却され、2006年6月に離日し、現在も現役で活躍しているとみられます。

ニュース画像 9枚目:アイランダーは「ORC」ロゴに変更。退役と同時に上五島、小値賀への定期便も終了 (ライトレールさん撮影)
アイランダーは「ORC」ロゴに変更。退役と同時に上五島、小値賀への定期便も終了 (ライトレールさん撮影)

アイランダーの8席から、Q200の39席に増えたことで旅客数も増加。これまでQ200の累計搭乗者数は2007年5月に100万人、2013年に200万人、2019年には300万人を達成。離島と長崎、福岡の都市と結ぶビジネス、観光の移動を支え続けています。

ここまで継続して運航してきたものの、Q200は老朽化。さらに経営面でも離島路線は国、県などの支援が無いと採算が取れないことから、新たな道が模索されています。国土交通省が音頭を取り、JALとANAの系列を超えたコードシェア、さらに機材導入・維持など、地方路線を存続する新たな仕組みづくりが始まっています。

ニュース画像 10枚目:ORCのQ200とANA/ORC共通機材のQ400 (ポン吉さん撮影)
ORCのQ200とANA/ORC共通機材のQ400 (ポン吉さん撮影)

JAL、ANAに加え、日本エアコミューター(JAC)、天草エアライン(AMX)、そしてORCの5社は2019年10月、九州地域で系列を越えた協業を促進する地域航空サービスアライアンス有限責任事業組合(EASLLP)を設立。先ごろ、この5社が2022年10月から、共同運航を開始する方針も伝えられています。ORCはANAのQ400を共通機材として使用していますが、機材更新は目の前に迫る大きな課題。5社連携が厳しい経営を解決する新たな仕組みとなるか、注目されます。

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